宮古島の英雄「久松五勇士」のお話。もっと宮古島を知ろう!
久松漁港にある「久松五勇士の塔」とは。
宮古島の久松漁港の裏手側には、
「久松五勇士の塔」があります。
5つの柱が、サバニを担いでいるようなこの塔の正体とは?
宮古島をもっと知りたい、歴史に興味がある方には、
ぜひ行ってみてほしい場所です。
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日露戦争真っ最中の出来事。
1905年(明治38年)、時は日露戦争真っただ中。
ロシアのバルチック艦隊が宮古島西北洋上を通過しました。
それをたまたま漁をしていた那覇の漁師が発見します。
那覇の漁師は、近くの平良港にかけこみます。
バルチック艦隊は、ロシアが誇る最新鋭艦隊です。
これは大変だ、すぐに東京に知らせなくては!
しかし、宮古島には通信施設がありません。
一番近い通信施設は「石垣島」石垣島までは約170キロの道のりです。
さらに、島についてからも、通信施設のある八重山郵便局までは
陸地移動30キロの距離😱
さて、誰が行くか❔
という事で、選ばれたのが、宮古島の漁師5人です。
この勇ましい勇敢な5人の漁師こそが「久松五勇士」というわけです☝
移動手段は「サバニ」
ロシアはバルチック艦隊ですが、
5人の漁師が乗り込んだのは・・・
エンジンもついていない木造の「サバニ」
手漕ぎで進まなければなりません😱
石垣島までの約170キロを15時間もかけて、5人は進みます。
凄いですね。15時間!
そして、石垣島から、八重山郵便局までの険しい山道を5人はひたすら歩きます。その距離30キロ!
そして、「バルチック艦隊が来た」と無事に伝達することができたのでした。
そんな訳で、
「久松五勇士の塔」は、5本の足にサバニが乗っている形になっているのですね。
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なかったことに❔
彼らは、どんな気持ちで15時間も船を漕ぎ、
30キロの山道をあるいたのでしょうか❔❔❔
沖縄という、いろいろと歴史のある地で、「日本の一大事だ」とは、これまた凄いですよね。
琉球王国に攻め入られ、廃藩置県で沖縄などという名前になり・・・
結構散々な目にあっているとおもうのですが・・・。
そんななか、
日本のためにと、サバニを漕いでくれた5人の漁師さん。
それなのに、
この後、この5人の漁師さん達の偉業はなかったことになってしまうのです😱
「信濃丸」
1905年5月27日午前4時45分。
東京の大本営にバルチック艦隊の存在を知らせる第一報が入ります。
この一報を入れたのは、日本の巡洋船「信濃丸」でした。
信濃丸はちょうどこの時間にバルチック艦隊に遭遇し、
三六式無線機で「敵艦見ゆ」と通信したのです。
宮古島の漁師5人が、石垣島の八重山郵便局に到着したのは、
午前4時頃なので、
信濃丸がバルチック艦隊を見た時間よりも早いのですが、
八重山郵便局からの電信が東京にとどくまでには
一度那覇の郵便局本局を経由しなくてはなりません。
なので、信濃丸よりも1時間遅れて東京に伝わることになりました。
経由したからといって、ちょっと遅すぎ😱
とは思いますが、当時の電信とか、miyacoにはよくわかりませんので、
余計な事を言ったら叱られてしまいますけど(笑)
とにかく、せっかく命がけで任務を果たした5人の漁師は、
「第2報」という扱いになってしまったのです。
彼らは、その後、普通の生活に戻り、普通に生活し、
誰に語る事もなく、過ごしたという事ですが・・・。
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その時、歴史は動いた!
明治が終わり、大正が終わり
当然5人の久松五勇士はお亡くなりになっていますよね。
ところが、昭和に入って、国語の教科書の中に
彼らの偉業が「遅かりし一時間」という物語として登場します。
これにより、広く知られることとなり、
功績をたたえらることになりました。
んー、時間かかりすぎ(笑)
しかし、宮古島では郷土の英雄となります。
お隣、石垣島にも、「久松五勇士上陸之地」という石碑があります。
それにしても、この「遅かりし一時間」を書いた人は誰でしょうか❔
miyaco的には結構ひっかかります(笑)
だって・・・誰❔知ってたの❔それとも、完全な物語❔❔❔
と、まあそんなお話です。
夏場は草がぼうぼうの恐れがありますが、
遠い日の宮古島の勇士たちに、思いをはせてみるのも良いと思いますよ☝
ではまた~✋
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