【沖縄】もう一つの平和祈念公園。知っておいてほしい事。

第32軍終焉の地

沖縄の平和祈念公園といえば、6月23日に総理大臣が訪れ、式典を行う場所ですね。

あの沖縄戦で亡くなったすべての方の名前が刻まれている、という「平和の礎」と「平和の火」という印象ですが、

実はこの公園内の端に、沖縄戦でたくさんの方が最後の時を迎えた場所があります。
第32軍隊の牛島中尉が自決した豪も、この公園内です。

中央の気持ちいい風とのどかな雰囲気とは打って変わって、切り立った崖と、生い茂った草木。点在する慰霊塔の中にその豪はあります。

ぜひ、一度訪れて、想像力をフルに働かせてみて下さい。

ほんの70数年前、ここで一体なにが起きたのか・・・。

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風部隊の塔

風部隊の塔に行くにはかなり歩きますので、車で駐車場の南口付近まで行くほうがよいと思います。

歩く元気のある方は、慰霊塔の中をつっきって摩文仁の丘めざして歩いてみても良いかも。ちょっとしたハイキングです。

南口から行くと、小さな看板があります。

「健児之塔」入口

周辺の家か店かわからないような建物は静まり返っています。

夏になると、千羽鶴をもって訪れる方がいるのでしょうか❔

そうだと良いのですけれども・・・。

公園中央とは、雰囲気が全然違います。

訪れる人もおらず、女の人が一人では危ない気さえします。

初めに出てくるのがマップ㊿の「風部隊の塔」

風部隊とは、戦況・気象情報・基地通信・燃料補給の任務にあたっていた部隊のことです。壊滅状態になった軍通信網に代わり通信業務に携わっていたものの、南部一帯の激戦で大半の方が死亡したとのこと。

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南冥の塔

分岐点があります。

矢印の方向へ。

下り坂なので、帰りがキツイという事はわかります。

こちらがマップ㊹「南冥の塔」

摩文仁周辺は沖縄戦の終焉地です。

追い詰められ、逃げ場を失った軍人・住民・学徒隊など、たくさんの人々がここに避難していました。
そこに米軍の苛烈な砲弾や爆撃が襲いかかりました。

「南冥の塔」は沖縄戦に参加し、あの地獄絵図のような参上が頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモト・タツオ氏が昭和29年に摩文仁区民とともに身元不明の兵士や住民の遺骨1万2千柱を祀った塔。

という事です。

地獄絵図・・・。

今は、草木が生い茂り、ハブでも出そうな雰囲気ですが、当時は、草も木も、全てが焼かれてしまっていたのかもしれません。

隠れる場所もない、というところでしょうか。

日系二世の方が祀った、との事ですが、「最後の絆~引き裂かれた兄弟」というお話を思い出しました。弟は鉄血勤皇隊。兄は日系アメリカ兵。ドラマにもなりましたね。兄・要潤さん。弟・佐藤健さん。

「南冥の塔」の裏には軍人・民間人が潜んでいたらしき自然豪があります。

となりの碑には

「陸軍軍医大尉 清松義親戦死の地」

とあります。

下の方にも「陸軍軍属 内藤・・・」(見えない)
「山口」と書かれた碑もあります。

ここで、軍医と一緒にお戦死した方々と思われます。

 

沖縄師範健児の塔

さっきの「南冥の塔入口」の場所まで戻り、今度は来た道とは反対側へ向かいます。

階段を登らなければならずにかなり疲れます。

結構歩くと㊸沖縄師範健児の塔が現れます。

説明、設立の経緯としては、
沖縄師範学校に収集命令が下り、「鉄血勤皇師範隊」となって動員される。
6月19日解散命令が出た後は、敵軍に切り込むもの、豪内で自決する者など、多くの犠牲者を出した。戦後生存者と滝澤同窓会の寄付によって塔が設立。
合祀319柱。

さらに歩くと、途中に階段が。

 

鉄血勤皇隊が最後に出撃した場所とのこと。

まわりにも、豪のような穴がたくさんあります。

この辺りは、☀太陽の光が届かない、というか、暗い上に、ますます空気が違う気がします。

同じ日のほぼ同じような時間に撮影していても、なんか違う感じです。

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司令部豪入口

さらに階段を登ります。

このあたりに来ると、息が切れています。

他の豪と違い、立派な柵が。

ここは第32軍司令官牛島中尉と長参謀長が自決された場所です。

ちなみに、ここを撮影したら、こんなのが1枚。真っ白。

ちょうちょがとんでいました。

 

ここまでずっと岩と草木しか見えなかったのですが、ここにきてやっと、海がみえました。外界に出てきた感じです。

 

勇魂の塔

階段を登りきると頂上です。

正面。

左側。

頂上に出るとマップ㊶勇魂の塔があります。

ここは自決した牛島中尉と長参謀長が米兵によって埋葬されていた場所だそうで、戦後、第32軍司令部将兵軍属の慰霊のために軍司令遺族戦友会によってたてられた碑です。

石碑には第32軍摩文仁司令部で戦死した方たちのお名前が刻まれています。

 

黎明の塔

勇魂の塔の脇に数段の階段があり、そこを登ると㊷黎明の塔です。

第32軍司令官の牛島満中尉と長勇参謀中尉を祀ってあります。

このあと、mapで「木道」と書いてある方に行くと、来る時に来た「南口」のほうへ戻ります。

まっすぐ進むと「摩文仁の丘」霊域園路のほうへ出ます。

安らかに

map㊵安らかに(鹿児島県)の塔。

奥の副碑は碑を割ってつないだ形をしています。

これは「戦争によってお互いが引き裂かれても、肉親や故郷を渇望しつつ沖縄で散り果てられた人々と私たちの間には断つことのできない永遠の絆がある」という意味が込められているそうです。

 

しずたまの碑

map㊼しずたまの碑です。

このmap、平和祈念公園の公式なのですけれども、順番がちょっとへんですよね。

でもここは㊼です。

沖縄戦では一家全員が命を落とした世帯が約380世帯ほどあり、誰にも供養されない御霊を慰霊するために、このしずたま(鎮魂)の碑を建てたという事です。1500柱を合祀。

 

その他、mapにもあるように、各都道府県の慰霊碑や慰霊塔がずらっとなんでいます。日本全国から集められた兵隊さんが沖縄で戦い、故郷にかえる事なく散っていった、という事です。

国立沖縄戦没者霊苑

こちらは霊域・国立沖縄戦没者墓苑。

沖縄戦で亡くなられた住民や軍人のご遺骨を納めた国立の墓苑です。

沖縄戦では軍民合わせて18万余りの命が失われました。

戦没者の遺骨収集は住民の手によりはじめられ、各地に納骨堂やそれを兼ねた慰霊塔を作り、収集した遺骨を納めました。

昭和32年、まだ沖縄がアメリカ統治下だったころ、日本政府が琉球政府に委託して那覇市敷名に戦没者中央納骨所を建設し、納骨していましたが、次第に収骨数が多くなり納骨が困難な状況に。

そこで国難に殉じた戦没者の遺骨を永遠にお祀りするにふさわしい墓苑を新たに作る事になり、昭和54年に本墓苑が創建。中央納骨所から本墓苑に転骨しました。

とのことです。

ここは、慰霊の日には、多くのご遺族の方々が訪れ、花などをお供えしていく場所です。

・・・。

今ではこの地でそんな悲惨な出来事があったなんて、とても信じられない「沖縄」ですが・・・。

ここら辺を訪れてみると、なんとなく、「本当にあったことなんだ」と実感できると思います。

今現在もなお、基地問題で揺れる沖縄ですが、色々と思う事はあっても、亡くなった先人の方達に、散っていった英霊たちに、手を合わせてみて下さい。

沖縄での出来事は、令和の時代になっても、忘れてはならないと思います。

二度とこのような悲劇がおこらないためにも。

平和祈念公園にお寄りの際はにぜひ。

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